阿夛 浩孝(Hirotaka Ata)
株式会社メタップス 人事総務部 IT戦略グループマネージャー
工業高校出身が強みに。"手に職"マインドが導くITの世界。
- 学生時代はどんな生活をされていたんですか?
最終学歴は高校なのですが、実は自分の高校生活は4年間ありまして(笑)。
高校2年の夏に家の事情で実家の鹿児島から親戚のいる佐賀の高校に転校、鹿児島に戻ってきた時がちょうど高校3年にあがるタイミングだったのですが、単位が足りないと通達され、進級できませんでした。学校側の提案で再度高校2年生をすることに。上下関係のしっかりとした学校だったので、クラスの中では先輩が同級生という状況となり、常に「アタさん」と呼ばれるように。そんな状況だったからか担任から生徒の相談を受けるなど、少し不思議な高校生活を送ることになりましたね。
当時は、遊ぶお金と、卒業後の車の頭金が欲しいと思って始めたバイトも、気が付いてみれば辞められなくなってしまって。ほとんどバイト一色の学生生活でしたね。
- インターネットの世界へはどのように入られたのですか?
当時溶接関係の仕事をして、少し経った頃にとあるサイトを開発・運営する会社の知人からシステム部門もあるので来ないかと声をかけてもらったんです。全然業種は違うけど、やりたいことを模索している時期でもあったので、経験を積む意味でも飛び込もうと。業種自体にこだわりはありませんでしたし。一生やり続ける強い意志よりも、手に職をつけるということが自分にとっては大切でした。高校時代も知り合いからもらった何台かのWindowsPCをバラして組み立てて、動く1台を作ったりと、機械いじりは好きだったんですよね。そうして、手に職をつけるため興味の赴くままに転職を決めました。
- そうだったんですね。すぐにシステム開発に携わることになったんですか?
いいえ、実際に転職をしてみると、営業をして欲しいと言われ、しばらくは営業として働きました。しかし、社内でシステム部門が足りないことは事実なので、どこかで可能性はある、いつかは、と思っていました。
ある日、一人のエンジニアの方が入社してきたのですが、そのエンジニアの入社によって会社が大きく変わり、開発体制も内製化することになりました。エンジニアの社内公募が行われたので、待ってました!と言わんばかりにすぐに手をあげました(笑)。
そして、彼から渡されたラクダ本(Perlの入門書)を隅から隅まで読み込み、営業をやりながら勉強し、サービス開発に携われるようになりました。この時、24歳。ここからエンジニアとしてのキャリアが始まりましたね。
しばらくして、東京に支社を作る。という話が出てきたんです。開発チームも東京へ移転するという話でした。その頃は特に上京の魅力を感じなかったので、自分は鹿児島に残ることにしました。東京の開発部隊が立ち上がり、しばらくすると東京に来ないかと再び声がかかりました。はじめは出張で東京へ行くようになり、徐々に業務委託のように数ヶ月単位で東京で仕事をするようになっていきましたね。そんな生活をしているうちに、本格的に東京に来ないかと改めて声がかかりました。
当時結婚したばかりで、妻に相談したところ「いいんじゃない」とあっさり承諾がでました。2011年3月上旬に東京へ。しかし、引っ越し直後、東日本大震災があり、余震や放射能汚染が騒がれていたこともあり、妻を鹿児島へ返し、単身で東京に残りました。
- そこでも仕事に対しての責任を貫き通したんですね。メタップスとの出会いは?
今まで以上に開発業務に携われると感じていたので、大きなチャンスだと考えていました。ある意味単身みたいなものだったので、周りを気にせず学習できる機会だなと。その後、複数のエンジニアの退職、開発部分の引き継ぎという流れになったため、退職。鹿児島に戻るという話も出てきた頃にメタップスとの出会いがありました。
お世話になっていた先輩からメタップスの人がエンジニアを探しているということで、当時のオフィスに行きました。メタップスの役員から「いつから来れますか?」という話になり、矢継早に話が進み、3日後には入社となりました。この後の激動の日々が待ち受けていることも知らずに。
− 激動の日々?!どうしてメタップスに転職されたんですか?
何より当時スマホ向けのサービスがやりたかったからですね。前職を退職することを決めた当時、本当に将来のことは何も決まっていない状態でした。鹿児島に帰ることも頭にありましたし、ゆっくりしたいとも思っていましたが、時代の流れ・変化に対しての興味は頭の中にありました。2011年はスマホが当たり前になりかけていた頃でありガラケーからのシフトへと時代は大きく動いていました。メタップスの事業がスマホアプリのリワードと聞き、「なんだそれは!」と、聞き慣れないワードを耳にした瞬間、好奇心がくすぐられたのを覚えています。なんだかわからないから行ってみるかと(笑)。
時代が動く時、人は動くものです。その時の自分はその波に呑まれただけなんですよ。
エンジニアにとって1番大切なのは、スキルではなく責任感
— 衝撃の出会いだったのですね。今でもエンジニアとしてメタップスで仕事を続けられている理由はなんでしょう?
エンジニアは責任感が第一だと思っています。そんなにネガティブなタイプでもないので、今まで辞める意思が最前面に出てきたことは無いです。そんなことを考えられる暇がなかっただけかもしれませんが(笑)
当時は本当に、本当に人がいなかったんです。人がいなくなると回らなくなる。逆にそれならやれるところまでやってやろうと思いました。
- これまでどんな事業に携わってこられたんですか?
メタップスに入社してまず関わったのは、リワード広告の仕組み「オファーボード」の開発/運用でした。入社後すぐに成果があらわれ、気持ちの良いスタートだったのを今でも鮮明に覚えています。そして一息つく暇もなく、続々とサービスを開発、立ち上げていきました。アプリの相互送客ネットワーク「Exchanger(エクスチェンジャー)」、還元率100%スマホ向けアドネットワーク 「DirectTAP(ダイレクトタップ)」など、続々と新規事業を0→1で立ち上げていきました。そして、今も主力事業であるモバイルマーケティングプラットフォーム「Metaps Analytics(メタップスアナリティクス)」の開発にも携わりました。
- 今はどんな仕事をされているんですか?また仕事との向き合い方は?
社内向け管理ツールのweb開発や、グループ・子会社のエンジニア採用のサポートなどをやりながら、エンジニアとして社内全体の潤滑材になれたらと日々考えています。
仕事に対しては責任感を第一にしてきました。
エンジニアとしてサービスに関わるのであれば、自分ができる範囲でやりきること。それが自分と仕事との向き合い方です。
-今後メタップスで「やりきりたい」ことは何かありますか?
はい、あります。それは社内で働き方の選択肢を増やすということです。
働き方改革など世の中が変化する中で、エンジニアもフリーランスに転向する人が増えています。しかし実態として、自分のやりたい仕事を自分のペースでやりたい、会社の規則に縛られたくないということでフリーランスになる一方で実際は申請や税金などやらなければならないことも増えてしまいます。また、フリーランスは自由が広がる一方で、引き換えに「会社員」であるという社会的な信用や保証をなくしている実態がある状況を変えたいと考えています。
現在でも個人事業主を保証・支援するサービスはあります。しかし、サポートは限定的です。そこで、メタップスというフィールドを活用し、全く新しいサービスができればと考えています。詳細はまた別の機会にお話しさせていただきます。
- 今後はどうしていきたいですか?
先ほどお話した新しいサービスを事業化させると共に、エンジニアの働き方を自由にしたいと思っています。働く案件も社内にこだわらず、外の案件も請け負うことでスキルをつけて成長していく、自由だけど保証もしっかりあるという新たな選択肢を作っていきたいですね。
- 最後に、どんな人と働きたいですか?
自分は価値観が合う人と働きたいです。実力も大切ですが、人の成長を信じているので、一番重要なのは向上心ですね。
人は適材適所で活躍できるところがあると思います。自分は人をじっくりと観察しより輝ける場所へ導くことに興味があります。メタップスにはたくさんの可能性を活かせる事業やポジションがあります。一人でやれることは世の中そんなに多くはないものです。売り上げを上げるにしても相手がいないとできないですよね。チームやサポートしてくれる人、ついてきてくれる人がいないと人は一人では何もできない。だからこそ会社という仕組みは上手く活かしつつ、働く自由度をあげるための選択肢の可能性を問い続けたいと思っています。